20歳のとき、重い椎間板ヘルニアを患いました。歩くこともままならず、日常生活すら送れない状態で、ほぼ寝たきりの療養生活を送っていました。動けない身体のなかで、ただ天井を見つめる日々。そんな時間が長く続いた頃、いわゆる幽体離脱と呼ばれる体験が始まったのです。
最初は気付いたら自分の足元が見えていて、寝ているはずの自分を別の視点から見下ろしていることに驚きました。何度も経験するうちに、睡眠中に自分で意識して抜けられるようにもなっていきました。
不思議なのは、抜ける前も、抜けている最中も、戻った後も、ずっと意識が途切れないこと。夢とは明らかに違う、地続きの体験でした。繰り返すうちに、ある思いが少しずつ自分のなかで形になっていきました。
この体験は一体何なのか。答えを求めて、あらゆるものを読み漁りました。1860年代〜70年代のイギリスで興ったスピリチュアリズムの文献、日本の心霊科学の古書、そしてロバート・モンロー研究所が開発したヘミシンク音響技術──意識を変性状態に誘導する科学的アプローチにも没頭しました。
科学では説明しきれない。しかし、確かにある。自分の体験と、時代や国を超えて積み重ねられてきた探求の記録が、静かに重なっていきました。
そしてこの確信を、いつか世の中に伝えたい。死は終わりではないということを、自分なりの形で届けたい。それが、私の人生の方向を決めました。
最初に思いついたのは葬儀の仕事でした。しかし新卒ではブライダル部門に回されると聞き、断念。その後、たまたま見つけたのが「仏壇のお洗濯」──仏様を綺麗にするという仕事でした。
金箔を丁寧に貼り直し、長年の煤(すす)を落とし、仏壇を蘇らせる。その作業の中で、仏教の世界に自然と触れていきました。
やがて独立し、三重県鈴鹿市で仏壇のお洗濯を専門とする「麗光堂」を立ち上げます。その後、お位牌の通販サイト「お位牌Maker」もはじめ、死と命に向き合う日々を重ねていきました。20歳のあの体験は、ずっと心のどこかに残っていました。
坐禅を知ったきっかけは、意外なものでした。
当時交際していた現在の妻と、友人カップルとの食事会。マナーの話になったとき、妻から冗談で「寺修行でも行ってきな!」と言われたのです。
軽い一言でした。でも、仏壇やお位牌を通じて仏教に触れてきた自分にとって、その言葉は不思議なほど自然に響きました。調べてみると、京都・亀岡に宝泉寺禅センターという場所がある。ここだ、と直感しました。
すぐに予約し、1週間お寺に行くことを告げると、彼女はとても驚いていました。彼女にとっては冗談のつもりで言った一言。それが、のちに私の人生の価値観を大きく変えることになります。
早朝の坐禅に始まり、作務で庭を掃き、精進料理をいただく。余計な情報も、スマートフォンも、肩書きもない日々。あるのは、自分の呼吸と、目の前のことだけでした。
入山した初日は、食事作法を覚えるだけで精一杯でした。器の持ち方、箸の置き方、音を立てずに食べること──作法で頭がいっぱいで、味わう暇もないまま、あっという間に食事の時間が終了していました。先に入山していた方がそっと作法を教えてくださり、二日目、三日目と、少しずつ食事を味わえるようになっていきました。
3日目くらいで少し慣れてくると、今度は新しく入ってきた方に、自分が教える側になっていました。
坐禅は、初日は苦行でした。足は痛むし、集中もできず、「早くこの時間が終わらないかな」とばかり思っていました。それでも朝と夜、坐り続ける。作務をするときも、食事のときも、ただ目の前のことに一所懸命になる。気づけば、すべての時間が、静かに充実していました。
そして最終日、宝泉寺を下山し、日常の景色のなかに戻った瞬間、何かが変わっているのを感じました。
ただ、修行中にすべてが腑に落ちたわけではありません。本当の変化は、日常に戻ってからも、静かに続いていきました。
修行から帰った後も、坐禅を続けました。お位牌Makerはオンラインの通販業なので、一人になれる時間がたくさんあります。注文対応や電話での問い合わせ以外の空いている時間を、ほとんど坐禅に充てていた時期がありました。
数か月が経つうちに、少しずつ、しかし確かに、自分のなかで何かが変わってきていることに気づくようになりました。それは劇的な悟りのような体験ではなく、日常の景色がじわじわと違って見えてくるような、静かな変化でした。
これまで自分は、知らず知らずのうちに「人からどう見られているか」をずいぶん気にして生きていたのだと気づきました。「こうあるべきだ」「こうしなければ」という縛りが、思っていた以上にたくさん身についていたことにも。
坐禅を続けるなかで、その縛りが少しずつほどけていきました。周りに反応して揺れ動くのではなく、ただ呼吸に戻る。それを日々繰り返すうちに、気分は驚くほど軽くなり、自分の見え方も、世界の見え方も、ゆっくりと変わっていきました。
前より自分が明るくなり、笑顔が増え、生き生きとしてきていることを感じるようになりました。妻との会話、お客様と電話で話すひととき、家のまわりを歩く時間。なんでもない日常の一つひとつが前と違って感じられるようになり、周りからも「性格が変わったね」と言われることが増えていきました。
過去の自分だったら気にも留めなかったのに、田んぼの上を飛ぶサギや、ふと見上げた夕焼け空。今までなんとも思わなかった自然の風景に、いつのまにか感動している自分がいて、毎日毎日が、ただただ素晴らしく感じられるようになっていったのです。
20歳のあの体験から、ずっと心の奥にあった問い。それが、坐禅という日々の営みを通して、特別な答えとしてではなく、毎日の感覚として、少しずつ腑に落ちていったように思います。
この体感を、もっと多くの人にも味わってほしい。それが「坐禅を広めたい」という想いに変わっていきました。
お位牌に手を合わせるとき、そこに向き合っているものは何なのか。
亡くなった個人の記憶だけではない気がしています。仏教では「空(くう)」という言葉で、あらゆるものには固定した実体がなく、すべてが関係性のなかで成り立っていることを説きます。量子力学では、粒子は観測されるまで確定した状態を持たず、可能性の重ね合わせとして存在しています。
お位牌に手を合わせるとは、いのちそのものに手を合わせること。坐禅とは、いのちそのものを感じるということ。どちらも、目に見えないけれど確かにあるものに向き合う行為です。
仏教には「回向(えこう)」という言葉があります。自分が積んだ善い行いの功徳を、他の人々の幸せのためにめぐらせること。
お位牌Makerでいただいた収益を、全国坐禅会マップの運営費に充てる。それは私なりの回向の実践です。仕事で得た対価を、情報という形の徳に変えて循環させたい。
このサイトは広告収入のためでも、商業目的でもありません。仏の在り方──人々の苦しみを和らげ、平穏を願う姿──を、小さくとも自分なりに体現しようとする、一つの挑戦です。
もうひとつ、いま私が深く惹かれているテーマがあります。それは量子力学と禅、そして仏教の「空」の接点です。
観測されるまで状態が確定しない量子の世界。あらゆるものが固定した実体を持たないと説く禅の「空」。離れた粒子が瞬時に呼応する量子もつれと、すべてが関係性のなかで成り立つという仏教の「縁起」。──これらは、まったく別の言葉で語られてきたのに、不思議なほど同じ景色を指しているように思えてなりません。
「祈りの量子力学的解釈」「観測者効果と禅の『観』」──そんなテーマで、少しずつ記事を書き始めました。証明できることではないかもしれません。それでも、自分の坐禅体験と、現代物理学が描く世界像を重ね合わせて考えていくことが、今の私にとっての大切な問いになっています。
同じ問いを胸に抱える方が、このサイトのどこかで立ち止まってくださることを、密かに願っています。
全国2,000以上の坐禅会を、地図から探すことができます。臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の宗派別表示、定期開催フィルター、現在地検索に対応。坐禅をやってみたいと思った人が、一番近い坐禅会にたどり着けるように。
また、坐禅の始め方や科学的効果、禅語や禅文化に関する記事も掲載しています。坐禅に興味を持った方が、安心して一歩を踏み出せるように。
知らず知らずのうちに、まわりに反応し、誰かと比べ、情報に追われる日々。現代を生きる私たちは、どこかで疲れを溜めてしまっています。
いま大切なのは、自分の心の内側を、あるがままに見つめてみること。呼吸に戻り、静かに今の自分を観察する。心が整うとき、いつもの景色が少しちがって見えてきます。
千五百年続く坐禅は、特別な人のためのものではありません。近年は脳科学や量子力学の研究からも、禅・仏教の教えの、その奥深さが見直されつつあります。そしてデジタル技術のおかげで、近くのお寺との縁も、以前よりずっと結ばれやすくなりました。
日本では、年に一万九千人もの方が、自ら命を絶たれているといいます。だからこそ願うのは── 一人でも多くの方が、心を整え、それぞれの"今"を、それぞれの"いのち"を、大切に生きていくこと。お寺との小さなご縁や、一度の坐禅との出会いが、その方の道をあたたかい方向へ導いてくれたら。
このサイトが、そんな出会いのきっかけの一つになれたなら。
それが私の願いであり、誓いです。
合掌。